5泊したドゥシャンベを後にしてパミールハイウェイの入り口、ホーログの町を目指す。
ドゥシャンベへ入って以来ずっとお腹の調子が悪かった彩もまだ全回復ではないので、朝も遅め。
出発は11時頃になってしまった。
途中、インド大使館へ寄って、ビザの受け取りが9月1日ころになってしまうことを伝えたら、「All your best!」と言ってもらえてた。なんともフレンドリーなインド大使館である。
というわけで、9月1日(もしくは2日)にインドビザを受け取り、9月5日の飛行機でデリーに飛ぶスケジュールがほぼ確定することになった。
ほぼ丸々1ヶ月をパミールで過ごすことができるので、かなり余裕を持った旅ができそう。トルクメニスタンやウズベキスタンのように、”カツカツ”な走り方をしなくても良さそうだ。
(ドゥシャンベから北ルートを通ってカライクムまで向かうことに)
ドゥシャンベからの道路
ドゥシャンベからの道はずっと舗装路で、綺麗そのもの。ただ今日はかなり暑かったのと、湿度が高く、かつ適度な追い風のため(つまり風を感じない)、なかなか距離が伸びなかった。
そんなこともあって、休憩はかなり多め。早くも18時頃にはガソリンスタンドにテントを張ってしまった。近くに商店があるということでガソリンスタンドの女の子に案内してもらった。
ほんとになにもない田舎町なのに、子供がとても多い。道では小さい子供たちが何人も遊んでいる。そんな風景がとても印象に残った。
ホーログへ向かう道は途中から未舗装になる。
これでも元々はタジキスタンを東西に繋ぐ立派な幹線道路。のはずが、一車線しかない隘路で、かつ右は断崖絶壁。ガードレールもないし、カーブミラーもない。
そんな道をトラックや乗用車がかっ飛ばしていく。そしてその横でヒヤヒヤしながらペダルを漕ぐ。
(あとから聞いた話だけど、どうやら1990年代のタジキスタン内戦ではこの付近が激戦地になっていたようで、この舗装路の荒廃はこの結果だそうだ。)
タジキスタン人とのふれあい
どうもこの道沿いのタジキスタン人は愛想がないように感じる。子供は無邪気に「ハロー」と声をかけてくれるのだけど、大人たち、特に女性は死んだように冷たい。
大抵、外国人である僕たちを現地の人々はそれこそジロジロと見つめるのが普通なのに。
ある日、疲れて休憩をしようとスイカ売りの子供に話しかけた。「エタ スコーリカ ストイット?(これいくら?)」とロシア語で話しかけると、6ソモニだそうだ。
日本ならお釣りの手間を考えてさっと計算して渡すのがスマート(いまはICカード決済だからそんな必要もないかな?)
それで僕は「はい」と11ソモニを渡した。5ソモニ札が戻ってくるのを期待していたのだけど、一向におつりを返してくれる気配がない。
電卓を持ってきて、子供たちに説明する。「6ソモニのスイカでしょ?11ソモニ渡したのだから、5ソモニお釣りだよ」と丁寧に説明しても一向に理解してもらえない。
学校に行っている歳だとは思うけど、初歩的な足し算引き算ができない。これにはちょっと困ってしまった。
しかたなく11ソモニを一度返してもらって、奥の家にいるお母さんに事情を話そうとする。
が、一向に応対してくれないのだ。1m目の前にいるお母さんに大きな声で「サラーム!」と言っても、小声で返事を寄越すだけ。
こちらのほうを見ようともしない。目を合わせようとしない。
ちょっとショックを受けながらスイカを食べ、自転車で走りながら考えた。
長く続いた内戦でよそ者に対してコミュニケーションが取れなくなってしまったのかな。そんな陳腐な答えしか思いつかなかったのだけど。
ここまで1年近く旅をして、こちらを見ようともしない現地住民に会ったのは初めてだった。
ホーログへ向かう途中、カライクムの町では宿に泊まったけど、それ以外は全て民泊になった。
ガソリンスタンド、チャイハナ、民家の一室あるいは民家の軒先にテント。
僕たちを泊めてくれたタジキスタン人に限っては、みんなとても親切だった。
チャイハナが閉店したあと、部屋をまるまる貸してくれたり、お金を渡そうとしても受け取ってくれなかったり。
「タジキスタン人はみんなダメ。」ということではなく、やっぱりどこの国でも親切な人、不親切な人はいるもの。
固定観念や先入観は持たないようにしないといけない。
(写真右:ガソリンを補給するおじさん。)
(テントの前で僕たちがやることをずっと見ているタジキスタンの子供たち)
地雷峠を越えて
この北ルートには、途中に峠がある。3300mの峠だ。
道はとても悪くて、峠を越えるのには本当に苦労した。
この峠は内戦の中心地、今でも地雷が埋まっている。日本が支援をした地雷除去車などが峠の途中に止まっていたりした。
こういうところでも僕たちの税金は使われているみたい。
↓ワンクリックの応援よろしくお願いします。↓

にほんブログ村