投稿者「きむらゆうじ」のアーカイブ

一緒に山に登りませんか??

イラン国内走行(2014年6月20日)

さて国境の町アスタラからひとまず東に走り始めることにする。
イランは道路の舗装状況もよく、路肩もある。運転マナーもグルジアよりは良さそうだ。

あたりには田園風景が広がる。
作っている米はどうもタイ米らしいのだけど、里山と田園風景が日本を思い出させる。

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昼休憩でジュースを買っていると、若いイラン人男性に英語で話しかけられた。
初日から思っていたことだけど、イランではよく英語で話しかけれる。
この男性はイランで英語教師をしているらしく、日本の文化について細かく質問された。以前紹介した自転車旅行者のネットワークWarmshowersにも参加しているらしく、アドレスを教えてくれた。

その後も、トラックの運転手に話しかけられたり(なにか困ったことがあったら連絡するようにと、連絡先まで教えてくれたり)、とにかく英語で親切をうけた。

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その日は、70kmほど走った町に泊まろうとしたのだけど、どうにも宿が見つからない。
困りながら、野宿の覚悟を決めて走りだすと、例のごとく車から話しかけられてしまった。

「一緒に山に登りませんか?」

「ん?山??」と困惑していると、どうも今日は金曜日で祝日。家族でピクニックにいくところのようだ。
時間も遅いので、宿の心配を口にすると、「うちに泊まっていけ」という。

自転車を、その家族の親族のうちに止めさせてもらい、車に乗って“ピクニック“にいく。

車はどんどん山を登り、1500mも標高を上げて、とある町に到着。
招待されるがままにちょっとしたピクニックスペースへ案内された。
そして好きなものを食べなさい。とキャバーブ(ケバブのイラン版)とバターライス大盛りをいただく。

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日本のことや、イランのこと、などいろんなことを質問された。
家族は父母兄妹の4人家族。お父さんは弁護士、お兄さんは英語の教師を目指しているらしく、妹さん(一番英語を話していた)は、歯科医師になりたいらしい。

余談だけど、イランでは医師は女性の割合が高いらしい。それは、「男性医師は女性を診察してはいけない」というイスラムの規則のため。女性医師は男性も女性も両方診察できるので、この点女性のほうが有利なのだ。
ただ、いろいろ調べてみると医師に限らず、高等教育、とくに理系に占める女性の割合は男性よりも高いらしく、サウジアラビア(スンニ派)のように女性の権利がないということは、イランに限っては当てはまらないような印象を受けた。

食事を頂いたあと、そのまま自宅に招待された。マンション一棟そのまま所有しているらしく、僕たちにもワンフロアまるごと貸してくれた。

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だだっぴろいリビングでおやすみなさい。。


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イラン入国

イラン入国(2014年6月19日)

前日しっかり休んだので元気回復。でも朝はしっかり白米を炊いてしまったりして結局10時のスタートになってしまった。 アゼルバイジャン最終日。道は相変わらず悪く、相変わらず「お~い、こっちにこ~い」と声をかけられ続けた。 この日は今までとは違い、向かい風もそれほど強くはなく、意外とあっさり国境の町Astara(アスタラ)に到着した。

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(国境のゲートは海岸沿いにあり、ちょっとわかりにくい。)

早速、ゲートを越えようとすると、警察官が現れ、「今はランチタイムだから2時半にくるように」と一言。 しかたなく手持ちのマナトを使い切るため、マーケットでジュースとヨーグルト、ハムを買って昼食。 時間になったので、国境に向かう。アゼルバイジャン側のイミグレーションは、いつもどおりの手続き。彩が痩せたせいで、パスポートの写真とよく見比べられたりしたくらいだった。

問題はイラン側。 まず国境の橋を渡って最初の警備員詰め所で、制止を受ける。イミグレーションでもなんでもないのに、パスポートの番号を控えられ、父親の名前を聞かれたり、と、よくわからない。

続いてようやくイミグレーション、パスポートコントロールに入る。すると、カウンターのおばちゃんが何やら手招きをしている。パスポートを先に渡せとのこと。渡してしばらくすると、今度は警察官が現れ、こっちにこいと言う。後についていく、と「ポリス!」と大書きしてある部屋に通される。う~ん、よくわからん。

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(イミグレオフィス。ブレちゃいました。)

警部だかよくわからない上司らしき人がデスクに座ってファイルに次々目を通しているけど、僕らは「シットダウン、プリーズ」と言われたまま…。 しばらく経って、ようやく僕達の手続きをしてくれるようだ。何やらゴソゴソとアタッシュケースをいじっている。 中から出てきたのは、じゃ~ん。スタンプ台。どこかでみたことがある道具。そうトルコのトラブゾン、イラン大使館でビザを申請するときも全く同じパターンでした。指紋採取。

スタンプ台が出てきた瞬間、「あー指紋か」と潔く両手を差し出す。「おーよくわかっているな!」と両手の指紋をバッチリ取られた。いや、そもそも両手の指紋はトラブゾンのイラン大使館で取られているわけで、指紋照合でもやるつもりなのか?外国人が通るたびに指紋をとっていたら大変だろうに…。ちなみに彩の指紋は女性警察官をわざわざ呼んで採っていた。どうも男性警察官は女性に触れてはいけないようだ。さすがイスラムの国。

まぁ結局のところ、警察官のおじさんはとてもいい人で、ワールドカップの話題(イランも出場している)で盛り上がった。ご丁寧にも日本とコートジボワール戦のスコアを教えてくれたり。一度イラン人とワールドカップ観戦してみたいなぁ。 最後に「Welcome our country」と笑顔で言ってくれた。いい言葉だね。いままでそんな言葉入国時に言われたことがなかった。

ようやくパスポートに入国スタンプが押され、イラン入国。 事務所を出るなり、両替商に囲まれてしまった。 とりあえず100ドルだけ両替しておくかな。と100ドルを2,505,000リアルに交換した。ちょっとレートが悪いかもしれない。 今日は少し先に進んで、野宿でもしようかと思っていたのだけど、彩の服(マントーと呼ばれるイスラム女性が来ている服。体のラインを隠すためのもの)を買ったりしているうちに結局17時になってしまった。17時から走り出すのはちょっと厳しいので、この町に泊まることにして一日は終了。

彩の服を買う時も、「君たちは私たちの国のお客さんだからお金はいらない」などとびっくりするようなことを言われたり(結局ちょっとだけお金は払った。)宿を探すときも、ちょっと迷っているとすぐイラン人のおじさんが寄ってきてくれて英語で場所を教えてくれたり、さらに最初に行ったホテルも、「20ドルくらいで泊まりたいのだけど」というと、「うちは無理だが、近くに安いホテルがある。そこにしなさい。行き方を教えてあげよう」などと、自分の利益にならないことなのに、親身になって教えてくれたりした。

うぉ~イラン。この国はいったい…。


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温泉とワインのトビリシ

ゴリを出発する
翌日、朝は少し早めに出発してスターリン博物館を外観だけ見に行ってきた。世界で唯一といわれるスターリン像もあるらしい。
スターリン博物館は、町の中心部スターリン公園の中にある。スターリンの生家やスターリン像、スターリンを乗せた客車と博物館がある。スターリン像は町に背を向けるように、ひっそりと佇んでいた。

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さて、高速道路に戻り一路首都トビリシを目指す。マイケルは今日の午後一でビザ申請をしたいようで、先に行ってしまった。トビリシまではわりとすんなり着いたのだけど、トビリシは縦に細長い街で町に入ってからお目当ての宿、ホテルジョージアに着くまで2時間近くかかってしまった。トビリシの手前10kmほどにある町はグルジア正教会でも重要な場所らしく、いくつもの教会が建っていて美しかった。

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(お昼を食べたトルコ料理屋。グルジアの幹線道路沿いには、トルコ人トラックドライバーのためのトルコ料理屋がときどきある。とても親切なトルコ人店員さんと)

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(道路未整備が不便であることを詫びる政府の看板。珍しい。)

トビリシの宿、ホテルジョージアでは、たまたま旅行中の日本の知人に会うことができた。
宿は驚愕の値段10ラリ(600円)。しかも、夕食付きだ。
多くの日本人旅行者が大絶賛する宿なのだけど、僕達としては、ちょっと居心地が悪く微妙なホテルだった。
部屋は窓がなく天井が低い、換気ができないため暑い、道路に面しているため煩くて眠れない、トイレとシャワーの間の仕切りがなく、シャワーを浴びるとトイレがびしょびしょ・・・。などなど、枚挙に暇がないのだけど、とにかく監獄のような部屋で長居するにはちょっと辛いかな。。ということになった。
まぁ、とりあえずこの日は泊まることにして、一緒になった日本人旅行者4人と久々の日本語トークを楽しんだ。

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(日本人に大人気のホテルジョージア。。。だけど僕たちにはちょっと厳しかった…。)

トビリシ滞在記
トビリシでは、アゼルバイジャンのビザをとる必要があった。2泊したホテルジョージアから旧市街のオールドタウンホステルに移動した。マイケルとヘンドリーからおすすめしてもらった宿だ。ホテルジョージアと比べればだいぶマシ。滞在も一息つけそうだ。

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アゼルバイジャンビザは発給まで所要3日、日本大使館の旅券添え状が必要で手数料は無料。窓口は月水金の午前中に申請、2営業日後の16時以降受け取りという具合だ。申請自体はスムーズで、特筆すべきことはなし。ただ場所だけ以前の場所とは変わっているので注意。調べていってください。日本大使館は、アンカラの大使館に比べて随分小規模だった・・・。

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(左:午後になると毎日雷雨がある。この日は大量の雹が降ってきた。右:彩の誕生日祝いでちょっと高いオーガニックレストランへ。)

ビザ待ちの間に、トビリシ名物のトビリシ温泉にいってみた。共同浴場のほうが有名なのだけど、ここでは個室のお風呂にも入ることができる。料金は一部屋10ラリ。天然硫黄の温泉で、硫黄の香りが日本の温泉とそっくり。肩までしっかり浸かれるので、身体の疲れを取るにはピッタリかもしれない。オススメ!

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※温泉の場所は下記を参考にしてください。
写真 1 


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【閑話】カメラについて語ります。

イランの旅も佳境に入ってきました。本日が7月14日。7月21日にトルクメニスタンに入国します。

さて、旅カメラ
旅とカメラ、古今東西ずーーーっと語られてきたテーマですね。
10ヶ月旅をしてきて思ったことを、備忘録としてまとめておきます。

Canon EOS6D / EF24-105mmF4L IS USM
今回の旅でメインカメラとして使っているのは、キャノンの6Dです。
35mmフルサイズセンサーを搭載したカメラで、特に高感度性能に優れています。
10ヶ月間、旅で使ってきてメリット、デメリットが見えてきました。

まずはデメリットから。
1、重い
6Dは本体が680g、レンズが670g、合計で1350gになります。
「気軽に」とはいえない重さですね。

2、線が太い
これはレンズの問題ですが、EF24-105Lは設計年度が古いため、以前僕が使っていたEOS7D / SIGMA17-50mmF2.8EXの組み合わせに、解像力で劣る場合があります。特にポートレートなどで、空気感の表現力に差があるような印象を持っています。(解像力については後述)

3、手ぶれ補正が煩い
これもレンズの問題ですが、EF24-105Lの手ぶれ補正音は音が大きく、動画撮影の際、手ぶれ補正をオンにしておくと、補正オンを思いっきり拾います。特に手持ちで風景撮影をするときなど、周囲が静かな分目立ちます。

というように、重さと解像力、手ぶれ補正音に悩まされることがあります。

次にメリットを
1、高感度性能
6Dを選んだ最大の理由は、この高感度性能です。
事実、ISO6400まではほぼ常用可能で、ISO12800も場合によっては使うことができます。
なんのことやら、という話かもしれませんが、通常のAPSC一眼レフカメラ、ミラーレスの場合、ISO3200でもノイズが目立ってしまうことがよくあります。(7Dや60D、70Dの弱点)

2、WIFI機能、GPS機能
WIFI機能、意外と使用する頻度が高い機能になっています。というのも、iPadやiPhoneからSNSに投稿する場合、写真を一度取り込む必要がありますが、WIFIがあると、いちいちカードを差し込まなくてよいので、とても簡単にデータを移すことができます。
GPSは、バッテリーに余裕がある場合、ほぼオンにしています。特にあとで見返した時(例えば記憶が曖昧になる数年後など)、GPSデータが残っていると、どこで撮った写真かすぐわかり重宝します。(前回の旅の経験から)

3、階調再現性
コンパクトカメラとしてSONYのRX100を使っています。RX100のレビュー記事などを読んでもらえばわかると思いますが、RX100自体がとても高性能なカメラとされています。
が、しかし、6Dで風景を撮影した時の階調再現性は、やはり別格です。ポートレートが微妙という話をしましたが、こと風景撮影になると、シルクのような艶やかさをまとって、グラデーションが再現できます。
これが意外とすごい。あとでサンプルを掲示します。

4、RAW現像の威力
EF24-105mmF4Lレンズにちょっと不満がある、というような書き方をデメリットの項でしましたが、コンピュータでRAW画像を現像すると、まったく違った印象になります。
キャノンのRAW現像には、独自のDLOという技術があります。デジタルレンズオプティマイザ、という名前で、「撮影時に様々な条件で劣化してしまった画像を、劣化する前の状態へ戻す。」という技術です。
この技術を使うことで、写真はまったく解像力不足を感じなくなります。

5、防塵防滴性能
6D及びEF24-105mmF4Lレンズ、ともに防塵防滴設計になっています。画質と直接関係がないので、普段あまり気にしないのですが、旅カメラとしてはとても重要なポイント。砂塵の中で撮影しても、本体内に入り込まない設計なので、安心して使うことができます。

以上、メリットです。

南米、パタゴニア以降、上述のDLOを使うため、写真はRAWで撮り続けています。
ちょっと手間はかかりますが、RAW現像をすることで、風景や人物を撮影するときも解像力不足を感じずにいます。

サンプル

ポートレート編(いずれも6DとEF24-105mmで撮影。DPPで現像、DLO適用済み)

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風景編

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次に旅をするとしたら、どんなカメラを選ぶか。
一眼レフ、ミラーレスカメラに限定すれば、以下のようなカメラがいいかな、と思っています。

重視することは3点
1、解像力を充分に満たすこと
2、軽いこと
3、動画撮影時の制約が少ないこと(動画AF能力、手ぶれ補正作動音の低減)

上記のポイントを考えると、以下カメラがオススメです。

SONY α6000
ソニーの最新ミラーレスカメラ。本体重量は344g、ツアイスの16-70mmF4(35mm換算で24-105mmと同等)が308g、合計652gとなり、6D&EF24-105と比べ、700g軽くなる。さらに動画撮影時のAFもすばやく、外部マイクもワンタッチで付けられる。動画も撮りたい人、旅カメラにはオススメです。
ただ、まだ自分自身で使っていないので、解像力で満足するかどうか、ちょっと不安。


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スリコ&メディコの家

メディコ&スリコの家で休息。
多くの日本人旅行者が大絶賛するメディコ&スリコ家のホームステイ。
その魅力はいろいろあるけど、まず料理と酒。ワインや地酒のチャチャは飲み放題。
料理もメディコお手製のグルジア料理をお腹いっぱい食べることができる。

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(自家製ヒンカリ。じゅわっと溢れる肉汁は健在!)

到着の翌日、この日ははもともと完全休養日ということにしていた。
チリのビーニャ・デル・マル以来となる自転車の後輪の軸を分解清掃して、新しいグリスを詰めたり、あるいはブレーキシューを交換したり。もう思う存分自転車いじりをした。自転車いじりは昔から大好きで、ほっておくと一日中整備してたりする。彩は洗濯をしてくれた。
午後は、溜まっていた動画を何本か作ったり、写真を整理したり。
そんなこんなであっというまに時間が過ぎていった。
朝ごはんはヒンカリ。夜ご飯もまた豪勢、そしてスリコの酒宴が始まるのでした。

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翌日、ホントは出発しようかとも思っていたのだけど、近くにある世界遺産の教会も見ていないし、ということでもう一泊することにした。世界遺産の教会は一度破壊されてしまったけど、今は修復がすすんでいる。
今から1000年以上も前にこんな教会が建てられていたとは、やはり驚きだ。西洋のいわゆる“バシリカ式”教会ではなく、“集中式”教会という建築法で建てられているらしい。会堂の空間は、バシリカ式のほうが広く取れるが、集中式もまた美しい。

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午後には食材のマーケットの見学に行った。グルジアの豊かな食文化を支えるマーケット。やはりさすがといった感じ。野菜から果物、スパイス、各種肉、そして薬草。食材がずらりと並んで活気があった。楽器を持ったおじさんたちが、マーケット内で音楽を奏でていたり、なかなかおもしろいマーケットだった。夜は彩がピアノを演奏したり(させられたり?)、賑やかな夜になった。(調律をおそらく数十年していないアップライトピアノの音は凄まじく。シロウトの僕でも、半音くらい違うんじゃないか、というような感覚に陥って、まぁそれはそれで面白かった笑)

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クタイシを出発する
3泊したスリコ&メディコの家を出発する。朝、メディコから自家製ワインをたっぷりもらい、「子供ができたら見せにくるのよ」なんて言ってもらったり。お世話になりっぱなしだった。
メディコもスリコもかなり高齢なので、これから訪れる旅人は滞在中、重いものを運ぶのを手伝ってあげたり、とちょっと慮ってあげた方がよいかもしれない。「お金を払って泊まっているのになんだ!」と思うかもしれないけど、メディコ&スリコの家に泊まっていると、自然とそんな気持ちになってしまう。メディコは腰を痛めているようで、歩き難そうだった。

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クタイシからトビリシまでは約300kmの道のり、途中2泊しなくてはいけない。
この日は久しぶりの峠がある。標高は1100m程度。大したことないと思っていても実際に走るとやっぱり辛い。結局この日は峠を越えることができず、手前のレストランにテントを張らせてもらうことにした。このレストラン、なんと店先で熊を飼っていた。小さな折の中に熊がいる。はじめは気がつかず、振り返るといきなり熊がいてかなり驚いた。でもこのクマさん、正直可哀想。こんな小さな檻の中で一生を終えるなんて、ちょっとあり得ない。夜中に逃がしてやろうかと思ったくらい。(やらなかったけど。)

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発展途上国だと、動物の権利はほとんど省みられないのかもしれない。かといって先進国?の日本は野犬を何万頭も殺処分しているわけで、どっちもどっちなのかな。ただ野良犬が自由に生きている発展途上国がよいのかといえばそうとも言えない気もするし(特に毎回襲われるサイクリストからすれば)、世の中は不条理なことが多いな、と思ったり。野犬を殺処分するな!と唱える反対派の人は、一度野犬に襲われてみればいいし、問題は野犬を増やしてしまう無責任な飼い主にあるえわけで、ドイツのように犬は登録制で税金でも納めさせれば、安易に購入して捨てるなんてことが起こらないような気がする。ICチップ案もそういう意味では賛成。あ、話がそれました。

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スターリンの生まれ故郷
翌日、峠を越えてゴリの町を目指す。午前中は下り坂だったので距離を稼ぐことができたけど、午後は予想外の向かい風に悩まされた。
そういえばこの日、ジュースを買って飲んでいるといきなり右上の奥歯が取れた。たぶん詰め物が取れたんだと思う、痛みもないし。ただかなりビックリ。どこかで歯医者にいかなくては。

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欧米人のマイケルもバテバテのなか、なんとかゴリの町に到着。ゴリはご存知、スターリンの出生地として有名な場所。宿はロンリープラネットに乗っていたホームステイ先に決定。
ちょっと高いわりにマットレスが薄っぺらで設備が悪く、また個室でもないので、「高すぎる。アンハッピーだ」とマイケルが拗ねてしまった。しょうがなく僕たちがマイケルに部屋をゆずってあげた。
いい年して拗ねるなよ~、マイケル・・・。
ちなみに宿のおばさん自体はいい人だった。おしい。

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(あれだけの権勢を誇ったスターリンも今はここに像が残るだけ。有名な“スターリン批判”によって多くのスターリン像は壊されてしまったらしい。グルジア人のスターリン。)


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至近距離のアザーン

グルジアに入る(2014年5月30日~6月1日)
朝、巨大なアザーンの音に叩き起こされ一日がスタート。モスクにテントを張るということは、ミナレットのスピーカーからも近いということ。規則正しい生活にはぴったり・・・。アッラーアクバル・・・。

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目をこすりながらペダルを漕ぎ始める。この日も前日と同じきれいな道。だけど、ちょっとトンネルが多いのが気になる。
トンネルでは路肩も無いので、ちょっと怖い。グルジアからくるチャリダーにとっては、海沿いに旧道があることが多いので、そんなに気にならないかもしれないけど、グルジアに向かうチャリダーとしては結構やっかいだ。
迂回路があれば迂回し、なければテールライトを装着してトンネルの中に入る。ただ幸いなことに片側二車線の道路なので、目立つテールライトをつけていれば、車は追い越し車線を走ってくれる。それでもトンネル内に響き渡る騒音と風はかなり怖いもの。できれば走りたくない…。

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昼過ぎ、ようやくグルジアの国境に到着。みなノービザでスムーズに国境を通過。グルジアに入った途端、車はベンツで溢れかえり、道路の痛みは際立ち、運転マナーは一気に悪化。道路を次々に牛が横断する世界。家々はソ連風の一軒家が目立ち、明らかに文化が変わる。

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夕方、国境から30kmのところにある、バトゥミという町に到着。以前は黒海沿岸の国際貿易港だっただけあり、港は大きく、町も発展していた。が、やはり一本路地裏に入ると、未舗装ばかり。ある意味、いかにトルコが発展していたかを思い知ることになった。(そんなトルコですら、車の運転や様々なマナーなどを見るに、やはりまだ発展途上国だなぁ。っと思っていたのだけど。)
夜はロンリープラネット(英語圏の著名なトラベルガイドブック)に載っている宿に投宿した。

楽しみにしていたグルジア料理を食べるため、みんなとグルジア料理屋へ。
日本人だけならまだ微妙なニュアンスで会話できるし、どうゆうスタイルで旅行しているかわかっているので、安い大衆食堂(ちょっと汚くても)に入ろうと言ったりできるのだけど、多国籍だとそうもいかない。汚い大衆食堂でもいいのか、それともリッチなレストランがいいのか…。
結局、うまくその話ができないまま、彼らはリッチなレストランを選んでしまった。
適当に料理を頼んで話していると、遠くのテーブルに座るグルジア人から「このテーブルに」と、ワインの差し入れがあった。
しかも2本もだ。お礼にそのテーブルを訪れ、握手して感謝の気持ちを伝える。が、結局、僕達のテーブルに来て、グルジアの地酒なども酌み交わし、みんな泥酔状態に。グルジア人は、「ジャパン、イギリス、ドイツ、グッド!ロシアはダメだ」なんてことを無意味にずっとエンドレスで叫んでいる。もうぐたぐたな感じで、彩と苦笑しっぱなしだった。(でも楽しかったです。)
翌日出発しなくれはならないため、早めに宿に戻り、就寝。この宿はなんと一部屋のドミに20人分のベッドがあった。
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どんどん前進。
グルジアに入ったばかりだけど、先に進むことにする。この先、北部の美しいメスティア地方に立ち寄るか、あるいはそのまま首都のトビリシに向かうか、選択肢が2つある。メスティアは今回の旅で是非行ってみたい場所の一つ。でも最新の天気予報を確認すると、どうも雲行きが怪しい。ずっと雨の予報だ。雨の中峠を越えて、さらに景色が見られないのはかなり厳しい。
ということで、判断を先送りにして、ひとまず北上し次の町ポチを目指すことにした。

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ポチは黒海沿岸にある町で、この町もバトゥミ同様、貿易で栄えた町らしい。2008年のロシア・グルジア紛争では、グルジア海軍の艦艇がロシア特殊部隊によって轟沈させられたとか…。このグルジア、実はいま話題になっているウクライナととても近く、ロシアの影響力も(軍事力も)行使されやすい場所だ。

この日はとにかく暑い日だった。温度計は38℃。しかも日陰の温度だ。実際は45℃くらいあったんじゃないかな。と思えるほど。

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酷暑地域対策の手ぬぐいを巻き、頭にバフ(バンダナのようなもの)をつける。この手拭とバフを水で濡らし、頭と首筋、心臓を冷やす作戦だ。水冷式エンジン(エンジンは人間)とでもいうようなスタイルにした。
道は比較的走りやすく、夕方頃ポチの町に到着。

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ホテル探しを始める。ロンプラに載っていたホテルに行くとどうも営業していないようだったので、あたりの人に聞き、民宿を紹介してもらった。20ラリ(約1200円)でWIFIもある、なかなか良心的な宿だった。
宿に荷物を置き、昨日食べそこねた伝統料理ヒンカリ(餃子みたいなもの)を食べに町に向かう。
何軒かまわってようやくヒンカリが食べられるレストランを見つけた。
ヒンカリは厚い小麦粉の皮で肉を包み蒸し焼きにする、まさに餃子みたいな食べ物。餃子との違いは、皮が分厚く、ひとつひとつのサイズが大きいこと、他のグルジア料理と同じようにパクチーをはじめとする様々な薬草が入っていることだ。
一口食べるとジュワっと汁がこぼれ出す。この汁がまた旨い。上手にこぼさず食べることができるようになるのはなかなか難しいけど、こつは捻ってある部分を掴んで食べることらしい。

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連日の100km走行もあるので、この日は早めに休むことにした。

メスティア断念。クタイシへ。
判断を先送りにしてきたメスティア、結局行かないという決断をした。
雨の天気予報は変わらず。やはりちょっと厳しそうなのが理由。残念だけど、先を急ぐことに。
この日は、日本人旅行者の中で有名なクタイシの民宿、メディコ&スリコの家へ向かう。
自家製ワインと地酒を浴びるほど飲ませられる有名な宿で、“人間世界遺産”なんて呼ばれたりすることもある場所だ。

グルジアの片田舎をひたすら走り続ける。道は悪く、路肩もあまりない。
まだまだ発展途上国、といった感じのグルジア。

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この日途中でなぜか警察のパトカーに尾行されるということもあった。うーん、護衛されているのか監視されているのか。しかし、ある区間をすぎるとパトカーはどこかに行ってしまった。どうもその区間に“なにか重要なもの”があったみたいだ。

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(昼食中もずっと監視する警察のパトカー)

途中には砲撃を受けた建物の跡が残っていたり、なかなか不思議な地域だった。

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(焼け落ちたビル。弾痕が所々に残る。)

夕方頃、ようやくクタイシに到着。メディコ&スリコの家につくと、メディコ(奥さん)が「日本人?」と嬉しそうにドアをあけてくれた。なんかに入ると、まだ荷物も外していないのにスリコ(旦那さん)が登場し、「リトーリトー(ちょっとちょっと)」と言いながら名物の牛の角にいれたワインを注いでくる。断ることはできなさそうだ…。
「なぜ牛の角で飲むか」って?
そりゃ、一気飲みさせるためですよ・・・。(テーブルに置くことができない。)

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夜はたっぷりのグルジア料理。いやーこれがまた美味しかった。すっかり夜まで話し込んでしまった。


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トルコを西へ東へ

再びアンカラに戻って(2014年5月21日~29日)
再びアンカラに戻り、前回取れなかったタジキスタンのビザを取る。タジキスタンのビザは即日で取れるらしい。事前に日本大使館にいき、「旅券添え状」なるものを発行してもらった。タジキスタン大使館はアンカラの外れにある。ウズベキスタン大使館と違って、自転車で行くにはちょっと遠すぎる場所だ。しかたなく、一回目はタクシーで向かうことにした。

タジキスタン大使館は広い丘の上にあって、かなり敷地が広い。日本大使館に行った時、その面積がかなり大きく。「おおさすが日本だ」なんて思っていたけど、圧倒的にタジキスタン大使館のほうが大きい。(たぶん、日本大使館がある地区が手狭になったので、大使館のために新たに土地を造成したような場所だった。)あたりには、新興国の大使館がちらほらあり、穴のあいたパズルのように立ち並んでいる。
タジキスタン大使館のインターホンを押して、中に入る。大使館員は横柄な態度だったが、ビザは発給してもらえそうだ。

話では、即日だったが、実際には翌日になるらしい。翌日3時に受け取りに来るように言われた。パスポートはホールド(預かり)だ。実は、翌日は11時にウズベキスタンビザを受け取ることになっていて、時間的にパスポートを返してもらえないと、ウズベキスタンビザを受け取ることができない状況だった。しかたなく「ウズベキスタンビザを明日受け取る予定だ」と話すと、「明日の午前中にパスポートをもってくれば良い」とのこと。しかし、アンカラの町外れまで午前中に来て、またなにもないところで時間を潰して3時に取りにくることはあまりにも非効率的。

結局、翌日3時にタジキスタンビザ受け取り、4時にウズベキスタンビザ受け取りというギリギリの時間で発給を依頼することにした。
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イスタンブールへ逆戻り
ビザを無事に受けとった僕たちは、自転車をアンカラに置いたまま、再びイスタンブールへ戻ることにした。折りたたみ自転車でもう4年以上も旅をしているチャリヨシさんがイスタンブールにくるタイミングで、「一度会いましょう」と話をしていたのだ。同じく前回イスタンブールでお会いしたチャリダーの伊藤さんとも再会する予定。楽しい再会になりそう。

バスに揺られること7時間。イスタンブールに帰ってきた。イスタンブール近郊までは5時間程度で到着するのだけど、イスタンブール市内の混雑のため、約束していたホステルに到着するのがずいぶんと遅れてしまった。

到着するとチャリヨシさんが餃子を仕込んで待っていてくれた!ひさびさに美味しい餃子をいただき、チャリダートークも盛り上がる。

二人四輪のWEBサイトでも以前からリンクを張らせていただいていたチャリヨシさん。クリエイティブ・チャリダーとしても有名で、以前からいろいろ参考にさせてもらっていた。自転車旅行を動画でまとめる。ということをちゃんと始めたのも、チャリヨシさんが初めてではないかと思う。

自転車旅行で動画を撮影、編集し、アップロードする。企画や構成、カメラワーク、構図などなど、自転車旅行で動画をとるものならではの会話で盛り上がった。伊藤さん、ヨシさんとは今年の冬、またネパールで再会できそう。楽しみにして、イスタンブールを離れることにした。
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みたびアンカラ
またもやアンカラに到着。もうアンカラのバスターミナルもずいぶん慣れてきてしまった。
到着してそのまま、トラブゾンへ向かうためのバスチケットを取る。トラブゾンは黒海沿岸にある都市で、イラン領事館があり、ビザが即日取れることで有名だ。僕らもそこでビザを取るために、翌日移動することにした。

宿に戻ると、ギョレメの宿で一緒だったチャリダーの森林さんが到着していた。久々の再会を楽しみ、夜ご飯を一緒に食べに行くことにする。

アンカラ滞在中、時々訪れていたウイグル料理屋だ。アクス出身のシェフが腕をふるうウイグル料理屋で、ウイグル人たちが夜な夜な集まってくつろいでいる。カシュガル出身の老人、アンカラに留学しているという青年。みんなウイグル人だ。

は、2007年にユーラシア大陸を自転車で横断した際、新疆ウイグル自治区に1ヶ月半ほど滞在した。ウイグル料理は大好きだし、ウイグル人たちを応援したいと思っている。ちなみに森林さんもウイグルを走行した経験があるので、ウイグル人たちと「ここに行ったぞ!この料理が好きだ!」なんて盛り上がったりした。
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(ウイグル風うどん、ラグマン)

バスでトラブゾンへ
以前から繰り返し話しているとおり、今年中にタジキスタンのパミールハイウェイ、そして北インドのラダックを訪れるためには、スケジュールが2週間ほど計画より遅れている。フランスからトルコに飛んだ時もすでに遅れていた。自転車でトルコを走ることはそれ自体がとても楽しいことなので、できればバスワープはしたくないのだけど、「トルコとパミール&ラダックどちらを選ぶのか?」と言われれば、やはりパミール&ラダックのほうが大切。トラブゾンへはバスで移動することにした。

バスに自転車を積み込む。特に拒否をされることはなかったけど、1人分の運賃を荷物代として請求された。まぁこれはどこの国でもままあることだ。バスはトルコの綺麗に整備された道を走り、翌日早朝、トラブゾンへ到着した。
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(寝不足のあやさん。)

イランビザ取得
宿に荷物を預け、必要書類を持ってイラン大使館へ向かう。他にも何人か日本人旅行者、外国人旅行者がいて、一緒に事務室へ入る。
大使館員はちょっとイライラする癖があるけど、ビザ発給自体は問題なく行ってくれた。30日で60ユーロ。(ちなみにグルジアのバトゥミでは40ユーロでイランビザが取れるとの情報がトビリシのホテルジョージア情報ノートにあった。)

昼に郵便局に行って日本への荷物を送る。そうこうしているうちに午後の4時。ビザの受け取りもあっさりOK。今までで一番簡単なビザ発給だった。
夜はイランビザ取得で一緒になった日本人2人と名物の魚料理を食べに行った。
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いよいよ自転車走行開始
トラブゾンを出発し、グルジアを目指して黒海沿岸を走り始める。トルコの道は相変わらず巨大な路肩があって、とてもとても走りやすい。世界でもトップクラスじゃないかと真剣に思うほど。チャイ畑を右に、黒海を左に眺めながらのサイクリング。

走っていると、後ろから別のチャリダーが走ってきた。英国人のマイケルだ。ニュージーランドに移住するつもりで旅をしているらしい。彼は先にいくというので、その場で情報を交換しわかれた。

このすぐ後、今度は別のチャリダーにも追いつかれた。ドイツ人のヘンドリー。23歳の若者で、大学を卒業し、9月の大学院入学までの間でいけるところまで旅行をするとのこと。
話を聞けば、朝は先述のマイケルと一緒だったが、あまりに出発が遅いことに嫌気がさしたマイケルは「じゃ」と言って先に行ってしまったらしい。ヘンドリーは後を追いかけているのだそうだ。ん~なるほど笑。

この黒海沿岸沿いは多くのサイクリストが走る道、南米を思い出した。

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(途中で通り過ぎたリゼの町は、チャイ発祥の地として有名。沿道には大きなチャイ工場がいっぱい)

夕方頃、黒海に沈みかける夕陽に足を止め、きれいだなぁ~っと見とれていると、マイケルが登場。どうやら僕達が追いついたらしい。

一緒に近くにあったモスクの駐車場にテントを張る。ヘンドリーがヨーグルトを2kgも買ってしまって、「頼むから食ってくれ」と言っていたのがおもしろかった。このモスクのイマーム(聖職者)はとても親切な人でなんとジュースの差し入れまでくれた。

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(写真下左:キャンプ地にはホタルが舞っていた。写真下右:黒海の水は意外と綺麗)


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なんで自転車旅行を始めたんですか?(後編)

挫折体験がこころに残ったまま
「思うように自転車旅行ができなかった」という挫折体験は、社会人になったあともチクチクと痛みます。東京・渋谷のとある会社に就職した僕は、厳しい先輩方(今となっては良き思い出です笑)にしごかれながら、自転車旅行のことは忘れ、とりあえず社会人として頑張ろうと日々を過ごします。が、やはり数ヶ月に一回、体が身震いするほど「自転車世界一周がしたい」と思うときがありました。これは何かのキッカケ(たとえば、自転車旅行をしている人のブログや雑誌の記事など)で、急に起こる発作のようなものでした。
自転車旅行をする。ということは、イコール会社を辞めるということと同義だと思っていましたから、「安定した暮らしができなくなる。」とか、ネガティブなことを思い浮かべて我慢することを繰り返していました。

そんな社会人生活も3年目に入った9月。2011年のことです。
前回の旅行で会ったことがある自転車世界一周を達成した旅行者の方と日本で3日間サイクリングする機会がありました。
ちょうどその頃、身の振り方について悩む機会が多く、自転車旅行をしたいという思いが強くなっている頃でした。ほぼ確信犯的に、「会えばきっと自転車旅行に行くと決心してしまう」と思っていつつも、会い、そして長野の山の中のキャンプ場で一晩語り、案の定、「やっぱり行こう」と決心してしまうことになります。

旅に行こうと思ったその具体的な動機
何より、やっぱり「地球の風景をこの目で見たい」と思ったことが一番です。
自転車乗りにとって、風景が美しい場所は数多くありますが、特に南米のアウストラル街道、そして、タジキスタンのパミールハイウェイ、最後にインドのラダックの風景が、どうしても脳裏から離れず、ここを走りたい。という思いが強くあります。
そして、人との出会い、その楽しさを味わいたい。という気持ちももちろんあります。
この特定の道を走るためには、最低でもそれぞれ1ヶ月の期間が必要で、それはすなわち会社を辞める必要がある。ということになります。

明確な目的(この場合、特定の道を走ること)を持たせることで、前回のような挫折を回避して、ここまで旅をしてきました。いま約10ヶ月の旅をしましたが、目的に沿って旅をしているので、充実感を感じています。

妻の存在
旅も10ヶ月が過ぎようとする今、「夫婦で旅を始めたことは本当に良かった。」と心から思います。もちろん意見が合わないこともありますし、それを乗り越えるプロセスも必要です。でも、いつでも話し合える。感動や思いを共有できる、というのは、当たり前のこと見えて、実はとても大事なことだと感じます。それは、もちろん前回一人で旅をしているからこそわかることで、いきなり二人で旅を始めたら、きっとこうは思わなかったでしょう。


何気なく書き始めた「なんで自転車旅行を始めたのか?」
完全に自分の思考回路を整理するために書いたのですが、思いがけず半生を記してしまうことになりました。
いや~お恥ずかしい限りです。が、自分で読み直しても、今回、この旅に至った経緯がよくまとまっているので、備忘録としてこのままにしておきます。

今日はこれから首都テヘランに向かい、インドビザを申請します。
今回の旅で再難関のビザになりそうです。


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なんで自転車旅行を始めたんですか?(中編)

冒険に興味をもったキッカケ。
ちょっと話は変わり、「冒険」というものにどこで興味をもったのか、という話を先にします。
うちの実家では、毎週土曜夜は「世界ふしぎ発見!」を家族で見る、という不思議なルールがありました。海外旅行にしょっちゅう行けるような家庭とはお世辞にもいえない家だったので、こういう番組をみて、「あー海外ってこんなとこなんだ」と、思いを持った記憶があります。

「世界まる見えテレビ特捜部」なんて番組も、ほぼ欠かさず見ていました。
海外のドキュメンタリーを紹介する番組ですが、中には、ナショナルジオグラフィックやアニマルプラネットなど、海外の自然を紹介するような番組も含まれています。小学生の頃、わくわくして毎週テレビの前に座っていた記憶があります。

それと、関野吉晴さん。ご存知、グレートジャーニーとして、南米からアフリカまで人力で移動した関野さんのドキュメンタリーです。母親が好きで、録画までして欠かさず見ていたため、当時まで小学生高学年だったかと思いますが、子供心に、「そんな人がいるんだ」というような無意識の刷り込みがあったのだと思います。そういう意味では、自転車旅行との出会いは、関野吉晴さんだったのかもしれません。

また大学生になって、「水曜どうでしょう」という番組にも出会いました。
ご存知(笑、この言い方もどうでしょう的ですが)、北海道のローカルタレントが愚痴を言い合いながら世界を旅する番組です。

こういった番組、今考えて見れば、主にテレビから冒険旅行のエッセンスを得ていたことに驚きます。

休学、そしてシルクロード横断へ
北海道自転車旅行から戻った僕は、そのまま就職活動に入ります。3年生の10月。否応なしに自分の将来について考えるわけです。「一流企業に入って金持ちになる。」、あるいは「いやライフワークバランスを重視する会社に入りたい。」いろいろと考えるのもこの頃ですね。
就職活動をする中、まだまだ視野が狭い大学生だった自分には、「会社に入れば、一生冒険はできなくなってしまうのでは。」という疑念が浮かんできました。

この2006年後半、9月に北海道自転車旅行を終え、そして就職活動に入るこの時期は、とても多くのことに思いを巡らせました。
気持ちのどこかでは、「自転車旅行をしてみたい」と思っている自分がいて、一方では、「ちゃんと社会にでなくては」と思う自分もいるわけです。

当時、(これは本当に偶然としか言いようがないですが)従兄弟がたまたまユーラシア大陸をバックパッカーとして横断していました。そして本屋でたまたま立ち読みした雑誌「自転車人」の特集がなんと「自転車ツーリング」だったんです。
家に帰る電車の中でじっくり読みました。様々な疑問がちょっとづつ解消されていきます。
中には、女性が一人でアフリカを縦断した話も載っていました。(山崎美緒さんのことです。)
家につく頃には、ほぼ確信に変わっていました。
「シルクロード横断自転車旅行はできる。」と。

12月ごろに決心をし、就職活動を中止して、アルバイトの時間数を増やし、金策に走りだします。同時に自転車を最小限のお金で改造したり、休学などの手続きについて調べたり。とにかく自転車旅行をするという前提で日々がまわりはじめました。

ユーラシア大陸横断自転車旅行
5月4日、大阪国際フェリーターミナルから出た蘇州号はゆっくり上海に向け舵を切ります。
一番安い2等船室のカーペットには、真新しいヘルメットをザックに付けた自分がいました。

大学時代のユーラシア大陸横断は、約5ヶ月。上海を5月に出発し、9月半ばにはローマに到着、パリから飛行機で日本に帰ってきました。自走距離は約5000km。
最初こそ異文化に触れる旅は新鮮でしたが、孤独が続き、ひとり砂漠の中を走り続ける体験はなかなか精神的にきついものでした。
それに当時は、「ユーラシア大陸を横断する」ことにのみ価値を見出していたようなところがあり、道中の景色や食事などにはあまり関心を払ってなかったように思います。
その結果、孤独への辛さから、ヨーロッパに着くまでにいくども輪行をし、旅を大幅にショートカットしてしまいました。

もちろんこの旅で得たことは図り知れないのですが、もっとも強烈に印象に残ったことは、「自分の弱さ」でした。一種の挫折体験ですね。でも今思えば、この自分を知ることができた挫折体験は、何事もオブラートに包み込むことのできる日本では得られないダイレクトなもので、大切だったように思います。

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なんで自転車旅行を始めたんですか?(前編)

イランのレズヴァンシャヒルにいます。
レズヴァンシャヒルってどこって?僕にもあまり良くわかりません。カスピ海に近い、中規模の町です。
道で出会ったおじさんに、「うちに来い」と言われ、そのままついていってもう2泊。
ホントは先に進みたいのに、そうはさせてくれない。
「ありがた迷惑」なんて日本語を久々に思い出したました。
ちなみにこのおじさん、昨年冬、日本を自転車で走っていたらしく、「日本で好きな場所は?」という質問に、
「柏!」と答えてくれました。「ドウイタシマシテ」と僕達を面白がさせようと連発しているおじさんです。

ペルシャ絨毯の上で特にやることもなく、ぼけーっとすること数時間。
眠くなったら寝て、腹が減ったら食べて、なんて、日本にいたらちょっと考えられない生活ですね。

最近、電子書籍をちょくちょく買っています。日本でも本屋が好きでした。
高校の時、近くにあった駅前のショッピングセンターに入居していた本屋によく入り浸っていたのを思い出します。趣味の雑誌、鉄道や飛行機、車、軍事関係の雑誌を立ち読みしていたかなぁ。なんとなくそんな思い出が。

電子書籍でハマっているのが、池井戸潤さんの本。もちろん半沢直樹の池井戸さんです。
バス移動の際の暇つぶし、なんてスタンスで購読してみたのですが、いやいや爽快で面白い。
半沢直樹なんかは、元銀行員の彩の解説を交えながら読むと、なかなかリアルに感情移入できたりします。

企業小説ばかりですから、自ずと、いまの自分の境遇と比べるわけですね。
日本で働くことってこういうことだったよなぁ。と。
東洋経済とか週刊ダイヤモンドとか、経済雑誌の記事もネットで読んだりするわけです。
エグゼクティブがどうとか、こうとか・・・インセンティブが・・・とか。いや、もう僕にとってはよくわからない世界ですが・・・。

ぼけーっと、石田ゆうすけさん(自転車旅行の紀行文で有名な)の本を読んでいたら、なんで自分は自転車旅行を始めたのかなーっと、今までに何回も考えてきたことを再び思い出し、そして今記事にしています。


強烈だった東金探検隊

小学生の頃(たしか4年生だったか)、今でも実家のある千葉県の片田舎、東金という町から、祖父の家がある東京都大田区の池上まで、一人電車で行ったことがあります。自転車で世界一周なんてことを始めてしまった今となってはとても小さなことですが、当時の少年にとっては、それはそれは緊張した一人旅でした。

『東金探検隊』、今や伝説になってしまった企画がありました。住んでいた東金市が郷土再発見をテーマに、小学生高学年から中学生を集め、リュックサックにテント食料を積み、一日の生活費500円で、山武郡市を練り歩くという企画です。
これは、今でも覚えていますが、結構衝撃的な経験だったんだと思っています。8月、酷暑の中を汗かきながら、重い荷物を背負って歩くわけです。コッヘルとかガンタ飯だとか、ヘッデンだとか、よくわからない謎の用語を覚えたのもこの頃。(コッヘルは鍋、ガンタ飯は水分量を間違えて炊いた硬い飯、ヘッデンはヘッドランプ)
もう20年も前の記憶ですから、風化していることも多いんですが、『ああ、歩いて疲れたらどこにでも泊まっていいんだ』という自由感はこの頃身につけたような気がします。『仲間とともに目的を達成する』という達成感。非日常感。普段スーパーファミコンをやっていた子供からすれば、異次元の体験でした。
僕のアウトドアの原体験は間違いなく、諸事情で潰されてしまった東金探検隊でした。(なので、東金探検隊から自転車世界一周の旅人が生まれたわけです。東金探検隊は再開するべき企画だと思います。>東金市役所の方々)

高校から、僕は合唱の道に邁進してしまうわけですが、実は一度、東金から池上まで126kmを自転車で走る、ということをしたことがあります。なんでそんなことをしたのか良く覚えてないのですが、たしか、夏休みに、自転車いじりをしていて(昔から自転車いじりが好きでした。)、新しいタイヤを履いたのがきっかけになって、「じゃあ走ってみるか」と。

船橋から東京都心を抜けるまで、結構苦労しました。海岸沿いは工業道路ばかりで、息つく間もないほどの交通量。内陸は、無数の交差点に阻まれ、なかなか距離が稼げない。結局到着したのは深夜の2時。
これでも、当時は『え~千葉から東京まで自転車で走ったの?すごい』なんて言われて、調子にのっていたなぁ(苦笑)

そして北海道自転車旅行へ

大学3年生の頃。大学とサークルでは音楽ばかりやっていて、千葉に戻ればバイト。という毎日。
ふと「違うこともやってみたいなぁ」と思ったことがありました。
たまたま妹が大学で自転車サークルに入っていて、楽しそうにしていたので、「じゃあ自転車をやろう」と思ったのも必然だったのかも。
無理くりバイトの休みを捻出して、ひとり北海道に自転車を持って出かけました。
千歳空港から札幌にでて、そこから電車で稚内へ。稚内への道中、旭川でラーメンをたべ、名寄では名寄高校の高校生と語り。『旅先での人との出会いが楽しい。』と思ったのはこの時が初めてでした。
利尻富士に登り、宗谷岬をみて、美瑛、富良野、帯広、釧路、とまわって網走、女満別から羽田に戻った2週間。
「自転車で旅する。ということは、わりと簡単にできる。」
そう思った。今につながる一番直接的なキッカケはこの旅だったのかもしれません。

長くなりすぎたので、後編へ。


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